桜が散る。だが季節は巡り、約束のようにしてまた桜は咲くだろう。それを見る自分はいつまで齢を重ねられるものか、いつまでこの桜を見ることができるのだろうか。
そんな感傷から、桜に特別な思い入れをするのかとも思う。しかし、年々花が散り、また咲くのはなにも桜に限ったことではない、なぜ桜なのか、と先般書いてそれきりになった。 ☞
それで、再び桜について書く。
桜は散る。だが、花はかならずしも散るものではなかった。
例えば椿は落ちる。文字どおり花ごとぼとっと落ちる。
朝顔はしぼむ。牡丹は崩れる。百合はしおれる。菊は朽ちる、あるいは枯れるというべきか。卯の花腐(くた)し、などという言葉もある。
いずれにしろ、おおくの花は、桜のように、花びら一枚いちまいが生気をとどめたまま散るわけではない。散るにしても、ほとんど朽ちかけた挙句に散るのだ。美しいまま終わる花はむしろ少ない。
群生する桜が春の訪れとともに一斉に咲き、美しいままに一斉に散る。そのインパクトは、他の花の及ぶところではない。(美しく散る他の花、梅や花水木に比べても。)
そのため、桜は古来からその散るさまをも謳われてきた。いやむしろ咲いているようすよりも、散ることについて謳われたほうが多いと思われるくらいだ。
そのピークは新古今和歌集である。
またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの
藤原俊成
桜花夢かうつつかしら雲の絶えてつれなき峯の春風
藤原家隆
花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る
式子内親王
次のピークは現在だろうか。
“みごと散りましょ国のため”などと、軍歌に担ぎ上げられてしまったトラウマからか、桜のうたはしばらく敬遠されたかのようだった。だが、2000年の福山雅治の「桜坂」をきっかけに、今やJポップで氾濫気味ですらある。
2000年aiko「桜の時」、02年森山直太朗「さくら」、05年ケツメイシ「さくら」、05年コブクロ「桜」、06年いきものがかり「SAKURA」、12年宇多田ヒカル「桜流し」等々。
そしてここで歌われているのは、ことごとく散る桜だ。
だが、それは、新古今とはいささかニュアンスを異にする。桜の季節が卒業-入学、入社と重なるという現代の事情を反映してか、別離(友人、恋人と)と再会の願望といった思いを散る桜に託しているのだ。
散る桜の歌われ方は、万葉集からJポップまで変遷している。
それらを比べてみるのも面白そうだが、ブログでは書ききれない。またあらためてべつの機会に。 ☛ 「散る桜」(未定稿)