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さくらながれてながれてやまぬ ― 永井陽子のうた

 

 

 永井陽子の全歌集をゲット。

 

 といっても、実物を入手したわけではない。歌集というのは、せいぜい数千部くらいしか出さないだろうから、リアルタイムで購入しないともう手に入らないことがおおい。

 

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ   ☞

貝殻山の貝殻の木が月光に濡れてゐることだれにも言ふな

べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

 

 永井陽子は昭和26年生まれの歌人。平成12年にこの世から去っていってしまった。歌集は遺歌集を含めて7冊。

 いくつかの歌集は‘甘損’などにも出品されているが、べらぼうな値がついている。死後出版された全歌集はこのような出版物としてはめずらしく重版となったそうだが、まずどの古書サイトにも出ることはない。

 諦めかけていたら、なんとこれが地元の図書館に。さっそく借りて全ページをコピー(約750ページ。3時間かかった!)

 コピーしたままでは不粋だし、だいいち読みにくい。

 歌集ごとにホチキス止めして製本テープを貼れば、まあ恰好はついた。ついでに全部が収まる函も。

 永井陽子のうたは、次のように評される。

 

…外へ開かないで、内へと閉ぢることによつて、あの軽快で、どことなく明るい歌が出来たといふことは、創作の不可思議を示してゐる。(岡井隆)

…歌から〈私性〉がほとんど完璧なまでに払拭されている…いかに三十一音のなかで「言わないで表現できるか」というところに賭けていたようなところがある。(永田和宏)

…私生活を排除した童話や物語のような詩世界。…言い替えれば、現実や世界を生々しく表現するにはあまりに鋭敏な感性を持ち、自分の価値観や美意識に反するものには触れたくないとの意思と意地があったか。(松平盟子)

 

 そう安易に括ってしまっていいものだろうか。よく知られた前掲のようなうただけを見ればそのような感がなくもないだろうが、彼女には次のようなうたもあることをこの評者たちは重々知っているはずではないか。

 

比叡山おばけ屋敷はいまもあそこにあるのだらうか なう 白雲よ

母がめそめそと泣く陽だまりやこんな日は手毬つきつつ遊べたらよし

父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日

ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ

 

 とりわけ初期のあざやかなうたが残像となってあのような評になったか。この頃を回想して永井自身が次のように述べている。

 

 だれもがなんらかの形で〈私〉や〈現実〉や〈社会〉に深くこだわっていた。…作品の内に作者そのものの姿を求めてしまう創作や鑑賞の方法…自我と密着せざるを得なかった近代短歌の方が、和歌史の中ではむしろ特殊な部類ではないだろうか。

 

 永井陽子の評価を高らしめた第二歌集「なよたけ拾遺」はファンタジックなトーンに覆われているが、ところどころに‘父’を詠んだうたが散見される。冒頭に掲げた "逝く父を…" もそうだが、全体の流れのなかでは、それも一連のファンタジーの一つという印象である。

 だが、この数年前に永井は現実に父親を亡くしている。彼女はエッセイのなかで、自分は両親の晩年の子で(年表によれば父50歳、母40歳で出生した)子供の頃、学校から帰ると父か母の葬式が始まっていたという夢を幾度となく見た、と書いている。

 永井陽子が「なよたけ拾遺」のあちこちににすべり込ませた‘父’のうたはまぎれもなく彼女の現実と繋がっている。もちろん、それは作品として昇華されたものだけれども。

 

逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

さみどりの黄泉のみづかげふりかへりふりかへりゆく父は旅人

田に遊び野草に遊ぶ神の背が父に似てゐる やがてさみだれ

わたくしを呼ぶ父やもしれず両耳を歩ますほどの月あかりなり

父は天にわたくしは地にねむる夜の内耳のあをい骨ふるへつつ

空へかへる父が抱きてゆきしかな虫のたましひ樹のたましひも

 

 これらのうたは、まとめられているわけではなく歌集全編にばらばらに散りばめられている。蓋し「なよたけ拾遺」という歌集は、永井の、父へのひそかな挽歌でもあったのだ。

 

 ― そして遺歌集「小さなヴァイオリンが欲しくて」におさめられたこのうた。

 

父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日 

 

 

 永井陽子は現実を超えることができたのだろうか。

 うたの世界だけに生きていけたら、どんなにかいいだろう…。観念などとしてではなく。

 切実に彼女はそう思っていたに違いない。「なよたけ拾遺」のあとがきに彼女は次のように記している。

 

…抱きつづけたもの呼びつづけたものをひとつの世界として提示する以外、私は私の存在を確かめようがありませんでした。そのことのみは、生涯、人にゆずることはできないと思います。かつて「短歌は青春の文学である」と言った無謀への返礼を、これから長く受けていくことでしょう。

 

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

 

 ‘ゆふぐれの櫛’ ― すなわち‘言葉’を、わたしは拾いあつめていく。わたしは‘言葉’だ。わたしは‘うた’だ。どんな現実も、‘うた’に回収してみせる。

 

 だが、現実は容赦なく‘うた’に浸食してくる。父の死をうたったときのようには、いかない。母の病と死、仕事上の不如意…。自らも病んだその‘晩年’は、あたかも現実とうたとがせめぎ合うかのような様相を見せて痛々しい。

 

  いまいちどすず風のやうな歌書かむ書かば死ぬらむ夏来るまへに

 

 そしてノートに残されていたという遺歌集の掉尾に掲げられたうた ―

 

流れたる歳月にしていつまでも美しからずわが言葉さへ

 

 彼女は十代からはたち頃にかけて、短歌とともに俳句もつくっていた。最初に上梓した「葦牙」は句歌集である。そのあとがきに "俳句は一生続けられる。…だが短歌は…。" と彼女は記す。それでもその後、永井が選んだのは短歌だった。

 

青春以外のものを短歌にたくせるか。青春からはずれた時経た魂が、気のとおくなるような連続のうえにさらに新しい連続を繰り繋いでいかれるか。残骸としての作品は許さぬ。だから自らへ向けて叫ぶのだ。「短歌は青春の文学である!」そして絶句する。

 

 「葦牙」の巻頭に掲げられた句 ―。

 

いまだ幼く ここは盛夏の切り通し

 

 切り通しを抜けて、永井陽子の魂は眩い陽射しのもと歩み去っていくことができただろうか。