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勇み足

 

 福岡伸一が新聞に連載していた「ドリトル先生 ガラパゴスを救う」が完結した。

 終盤、福岡の学問的な自説が前面に出すぎるきらいはあったけれど、毎日楽しみにして読んだ。

 だが、物語が終結したあと、続いて‘特別編’なるものが掲載された。「ドリトル先生の原点」。

 これはいけない。蛇足、というより勇み足というほかはない。  ☞

 

 ガラパゴスは福岡の自説(“動的平衡”)が端的に証明される場。連載される物語も学者のただの余技ではなく、その主張を展開するフィールドにもなった。

 だが、ドリトル先生シリーズの設定を借りた新たな物語は、あくまでスピンオフというべきものだ。

 ところが福岡は「ドリトル先生の原点」なる‘特別編’で、さらに自分にとっての理想の学者像を描き出そうと、ドリトル先生の‘履歴書’にまで筆を伸ばす。

 もはやこれはスピンオフの域をはみだしている。福岡が描く‘履歴’は、まあ、突拍子のないものではなくいかにもそれらしいものなのかも知れないが、本来、この‘原点’は読者に委ねられるべきものだ。それを差し出がましく具体的に規定してしまうのは、読者の想像の余地・自由を縛る、許されざる逸脱行為である。

 

 さらにこの‘特別編’のあと、‘スタビンズくんのあとがき’が書き加えられる。

 ここで福岡は、学者らしい几帳面さからか、この「ガラパゴスを救う」と「航海記」の年代的な前後関係の矛盾について、くだくだと屁理屈を述べる。興ざめである。

 曰く ― 、実は「航海記」の前に「ガラパゴス」があったので、「航海記」で初めてスタビンズがドリトル先生と出会ったと語られているのは、ガラパゴスをめぐる政情からカモフラージュせざるをえなかったからだ云々。

 スピンオフがオリジナルを浸食するなどということがあっていいものだろうか。原作に対する敬意をあまりに欠いていないか。

 百歩、いや千歩譲ってそうだとすればどんなことになるか。「ガラパゴス」で描かれるスタビンズ君はドリトル先生の質問にも賢く答え、綿密な記録をノートして複雑な計算もこなし、気球から放り出されてドリトル先生とはぐれてしまった時も落ち着いた的確な行動をとる。かたや「航海記」のスタビンズ君は、まだ、ドリトル先生に“読み書きとちょっとした算術を教える(福岡訳)”といわれるようなレベルだ。さらに船が難破して大海原に投げ出されてしまったときもなすすべがない(なにしろまだ‘九歳と半年’なのだ)。

 これで「ガラパゴス」が「航海記」に先んじるというのはあまりに無理というものだろう。こんな蛇足は無視すればいい、というものではない。少なくとも目障りである。妙な屁理屈は願い下げにしたいものだ。