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ドラコニア忌

 

 澁澤龍彦は'87年の今日、 59歳で亡くなった。今年は没後35年になる。

 

 20歳の頃、夢中になったのは石川淳と澁澤龍彦だった。初めて手に取ったのは「偏愛的作家論」だ。石川淳を論じた章があったからだろう。  ☞

 本の裏見返しの遊び紙に購入日と書店名を記している。買ったのはその後に通うことになる大学の街の古本屋で、どうやらその大学を受験した帰り道だったとうっすら記憶している。受験生のくせに、なにを考えていたのか。

 

 その数日後には、これもそんな事情がなければわざわざ出掛けることのない街の本屋で、当時出版されていた「澁澤龍彦集成」の第5巻を買っている。また別の大学を受験した帰途だったのだろう。受験生がまったくなにを考えていたのか。

 だが、ここに収められていた『異端の肖像』が決定的だった。現実など歯牙にもかけない澁澤の世界に、屈託した受験生が惹かれたのだろう。それから手当たり次第にその著書を渉猟することになる。

 

 サド裁判の被告人にもなった澁澤は、60年70年の政治の季節とも相俟って、反権力の象徴的な立ち位置に祀り上げられていた筈だ。‘異端’‘エロチシズム’‘シュルリアリスム’‘幻想’等々のテーマは時代の空気にも見合っていた。

 怖いもの見たさもあったのだろうが、だが澁澤龍彦に魅了された最大の理由は、実はその‘明るさ’にあった。アンダーグランド的な世界を提示して、当時世間的には謎めいた暗黒のベールにつつまれた人、のようなイメージで捉えられていたけれど、それは些か子供っぽいケレンを好む澁澤の自己演出によるところがおおきい。

 

 自分にとってこの頃の澁澤龍彦のイメージは冒頭に掲げた写真の、真っ白いスーツを着て明るい陽光を浴びる姿だ。彼の著作を開くと、精神がとても自由に、開放されたような気持ちになった。

 吉本隆明は澁澤を評して“昆虫少年”と言ったそうだ。昆虫を採集してその標本づくりに夢中になる少年。彼はあたかも珍しい昆虫を捕獲するようにしてサドとか、ルドヴィヒ二世とか、ハンス・ベルメールとか、アンドロギュヌスとか、錬金術とか、さらに中期にいたっては、螺旋について、千年王国について、紋章について、宇宙卵について、縦横無尽に語った。それが一般には二流とされるものだろうが、キワモノとされていようがまったく意に介さなかった。澁澤自身は、秘密めかした得体の知れない人物ではなく、明晰でリベラルで開放的なひとだったのだ。

 

 

 '95年の「澁澤龍彦展」での公開対談で、盟友の巌谷國士が次のように語っている。

 “展覧会場に「再現」されている北鎌倉の書斎にしても、じつを言うとあんな書斎はめずらしいですよ。だっていつも扉開いているんだから。ふつう作家の書斎というのは、扉があって、他人は入れない。…(中略)…それが居間・客間とつながっていて、誰でも入れるようになっている。居間・客間と区別がないんですよ。それは、いわば象徴的な譬喩になるけれども、澁澤さんの作家としての人格というのは、書斎から外への境があんまりない。〈「澁澤龍彦を語る」p72〉”

 

 また、同イヴェントの別の日の公開対談で、やはり盟友の種村季弘は次のように語っている。

 “一種の澁澤オタクみたいな人が考えているのとはちょっと違って、もうちょっと何もない世界ですよ、きっと。つまり、最初に僕が伺ったころの小町の八畳間の、青畳がタタタッとあって、何も置いてなくてトリスの壜が置いてあるだけというような、あとから考えてから言うんだけれども、何か東洋の神仙の世界みたいなものに近いような人で、プレテクストとしていろいろなオブジェはあるんだけれども、そのオブジェがどうしてもなきゃならないというものじゃないので、なくなっちゃっていいし、ひょっとしたらなくそうと思っていたんじゃないかな。〈同書p241-2〉”

 

 澁澤家にはよく人が集まっては宴会になり、高歌放吟が始まったという。夫人の澁澤龍子が記している。

“昔は飲み始めるとべろべろになって、自分が起きているかぎり人を引き止めて帰さず、酒宴が何日もつづくことがあり、これにはうんざりでした。わたしはひそかに失礼ながら「三馬鹿」と呼んでいたのですが、土方巽さん、加藤郁乎さんに澁澤がそろうと、もう手がつけられません。〈「澁澤龍彦との日々」p72〉”

 

 

 澁澤がロールシャハ・テストを受けた次第が「ユリイカ」'75年9月の澁澤龍彦特集号に、掲載されている。

 被験者の深層が丸裸にされるようなテストを受け、しかもそれが公に晒されるというのは、普通には敬遠したくなるものではないか。だが澁澤は自ら興味津々といった態で喜々としてテストに取り組む。サドやブルドンを研究したように、自分自身を観察の対象としているようなのだ。試験者の馬場礼子との対談で次のようなやりとりがある。

 澁:それはぼく、こういうテストが好きだから。自分もテスターになっちゃうんですね。

(中略)

 馬:なにかテストする側と一体になって自分を見る側に回っているっていうようなね。

 

 そして馬場の詳細な分析を聞きながら、なるほど、なるほどとそれを受け入れる。例えば‘分離不安’というような分析を受けて“分離不安てのはいい言葉だなあ。(笑)こんど使おうかな。フロイトの言葉ですね。”などと悦に入っている。あたかも標本にした昆虫に分類ラベルが貼られたときのように。また、次のようにも ―。

 馬:いえ、仮定としてつながりうるということであって、澁澤さんが、いやそんなものはつながらない、実際はこうなんだと言ってくだされば、非常にありがたいんですけど。

 澁:いやいや、ぼくは馬場さんに言われると、みんなそうみたいな気がしてくる。いや違うんじゃないか、というのはないですね、今まで聞いたなかで。みんな当ってますよ。

 

 さらに澁澤らしいのは次のやりとりだ。

 馬:今日お話ししたことのなかに幾つか澁澤さんにとって惜しいなとか、もうちょっとこうだったらいいのにと思うような点がありましたね。そういうことについてのご感想はどうでしょうか。(後略)

 澁:そういわれても、窮極的にぼくの性質は変わらないでしょうからね。だから、じゃあ一つ自分の性質を改めて、ということはとても無理だね。

 

 あたかも、カブトムシはカブトムシであって、カブトムシがもうちょっとこうだったら、というのは意味のないことだと言っているかのようだ。自分を他人のように突き放して観察しながらも、同時に自分自身の性癖・嗜好は揺るぐことのない既定事実としてある。澁澤龍彦の真骨頂が現れたやりとりではあるまいか。

 

 

 澁澤龍彦という人の稀有な性質は、病に侵されてからの振舞いにも端的にあらわれる。

 

 亡くなる前年にかねて不調を訴えていた喉に悪性腫瘍が発覚し、気管支切開手術の結果、声を失う。会話は筆談になった。前述の対談で、巖谷と出口裕弘が次のように語っている。

 巌:…僕のときに最初に書いた一行をこのあいだ見直したら、「サイボーグになっちゃったよ」と書いてあった。

 出:そういうたぐいの書き方ね。(中略)なにしろ鉛筆で書くのは大好きで、絵もけっこううまいんだよね。自分の喉の部分を図解して、「ブローネル風」とかね。

 巌:「ここを切りとる」とか書き加えてね。〈前掲書p86〉

 

 龍子夫人も次のように記している。

「首吊り自殺ができない」(中略) 冒頭の言葉は、彼自身エッセイに書いていますし、池内紀さんとの対談では絵入りで説明もしています。(中略) 冗談好きの彼ですから明るく、得意になってお友達に話していました。〈前掲書p180〉

 

 もちろん夫人が記すように“澁澤自身は前々から闘病記なんてまっぴらと言っていましたし、他人の同情を買うような苦しみやもがきなど、絶対に見せたくなかったでしょう。〈同書p172〉”というプライドもあっただろう。だが、このようなエピソードを読むと、子供が自分のおもちゃを自慢するようにして、病人の澁澤をもう一人の澁澤が見せびらかしているような気さえしてくる。

 

 再度、出口-巖谷の対談を引く。

 出:…山のようなプランをもったまま死んでいったんだから、無念といえばおそろしく無念なはずなのに、そういう気配がまるでなかったね。(中略)

 巌:非常に透明になりましたよ。(中略) 表情も穏やかだったし。(中略) 青空みたいで、ポカーンとしているんです。〈前掲書p88〉

 

 この闘病中に、澁澤は執筆中だった「高丘親王航海記」の最後の2章を書き上げ完成させる。最終章の『頻伽』は龍子夫人によると、“今考えると、よくも書き上げることができたと思います。起き上がることもできないほど弱っているので、わたしは何度も「文學界」にお断りの電話をしようと思ったのですが、彼は机にかじり付くようにして書きつづけました。〈前掲書p174〉”。

 

 小説の終局、自身の病を投影させたかのようにして親王は病み、旅を続けることを断念する。そして自らの体を天竺に運ばせるためにあえて虎に食われてしまう。“モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった。”と澁澤はあっさり書く。

 

 '87年8月5日午後3時35分、ベッドで読書中だった澁澤の頸動脈瘤が破裂する。一瞬の死だったという。

 “種村季弘さんも出棺の辞で言われたように、生前澁澤はヴェスヴィオス火山爆発を観察中に火山弾に当たり倒れた大博物学者プリニウスの死を、理想の死と申しておりました。ですから、自身の肉体の爆発で一瞬に倒れた澁澤は、理想の死を遂げたといえるでしょう。しかし、理想の死というものがあるのでしょうか。〈前掲書p178〉”

 

 澁澤龍彦とはいったい何者であったのか。

 

 遺作「高丘親王航海記」が澁澤の最上の著作であるのみならず、文学史上に類を見ない傑作であることは贅言を要しまい。