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‘難しいんですよ、はい’

 

 ジャニー喜多川による被害者が“少なくとも数百人”! 表沙汰になるきっかけが、BBCの放送や国連人権理事会の調査だったとは。ほとほと情ない。‘国辱’という仰々しい言葉さえ浮かぶ。

 ブログで社会事象に触れるつもりはなかったのだが、どうしても腹に落ちない。メディア ― それも利権に絡み取られてなかったはずの新聞はなぜ沈黙してきたか。 ☞

 

 ジャニー喜多川の非道の犯罪、ジャニー事務所の隠蔽工作、テレビ局や出版社の沈黙、などは、その詳細はともかく、構図としては分かりやすい話だ。

 だが、テレビ局等と違って、新聞は特段にジャニー事務所からの圧力は受けていなかったはずだ。それなのになぜ沈黙していたのか。

 

 8/30放送のBS-TBS「報道1930」に、朝日新聞の大久保真紀という編集委員が出演している。

 番組終盤での、‘メディアの沈黙’について問われての彼女の発言。煩を厭わず、そのすべてをできるだけ正確に書き起こす。これを仔細に見れば、朝日新聞の(延いては新聞ジャーナリズム全般の)建前・本音が図らずも見え隠れしてくるようだ。

❶ 本当に今おっしゃったように芸能ゴシップというのが私にもやっぱりありました。文春が書かれた時もやっぱり‘ホモセクハラ’という言葉を使っていらっしゃったんですよね。やっぱり暴露本、週刊誌の芸能ゴシップという感覚が私にはありました。ですから私ももちろん反省しなけりゃいけないんですけど、ただ、あの時代の時代背景考えると、日本の虐待防止法ができたのが2000年なんですよね。なので、あの99年に文春がやっているときに新聞ができるかっていうと、本当に申し訳ないとしか言いようがないんですけど、なかなか難しかったと思うんですよね。

❷ もし、その機会が、チャンスが、という時は、やっぱり裁判で2004年の最高裁で、名誉棄損で訴えられた文春さんが ― まぁでも負けてはいるんですよ。120万の賠償命令は受けているので。(キャスター:ただ性加害については認定されたわけですよね。) …については認定されてるんですね。で、うちはそれを非常にベタ記事で出していて、一応結果は出しているんですけど、その内容については自ら取材しようというふうにはならなかった。で、私は申し訳ないんですけど判決文出ていたのは知りませんでした。なので本当に認識がなかった。いわゆる人権侵害という認識が非常に低かった、ということを本当にもう申し訳ないと言うしかないんですけども、いや、かなりきびしかったと思います。

❸ 実は今、私5年ほど子どもへの性暴力やっていますけど、今でさえこういう問題出していくのはすごく大変。(キャスター:どう大変ですか?) やはり被害者の言い分が一方的じゃないか、加害者の言い分をちゃんと聞いているのか。(キャスター:それは読者ですか、社内ですか?)社内もありますし、社外もあります。

❹ なので、あと、性加害問題というのが往々にして、社会もそうですが、社内も含めて出すけど,見たくない、聞きたくない、あまり皆さんざわざわするので、やはり真正面にとらえたくないという思いがあると思うんですね。そうするとできれば見なかったことにしたいという気持ちが無意識のうちに働くと思うんです。で、そういう影響でオカモト・カウアンさんが会見した時も、やはり、うち、なんとか記事にできましたけど、他社もまだ非常に小さかったと思うんですね。被害者の顔を出して実名で被害を訴えても、だからこそ書くべきだと、私かなり主張して、まあ、うちはかなりきちんと報道できたんですけど、それでもやはり、なかなか難しい。今の時代になっても難しいんですよ、はい。

 

 突っ込みどころ満載である。

 まず、'99年の文春報道時点についての発言(❶)。(児童)虐待防止法の公布が2000年だったから、というが、そもそもこのような法が求められるは、それ以前から社会的な情況を踏まえた気運が高まっていたからではないか。具体的にはそのきっかけとなった「子どもの権利条約」の批准は1994年である。法ができていなかったから、というのはあまりにお粗末である。ジャーナリストは法ができてからやっと問題を認識して重い腰を上げるのだろうか。

 百歩譲って、'99年の時点の時代背景では“なかなか難しかった”のはやむを得ないとしよう。だが、'04年の最高裁での判決確定時点について(❷)は、なんら沈黙の理由・原因らしきことを述べていない。“判決文出ていたのは知りませんでした”(!)、“認識が非常に低かった”と反省してみせながら、でも“いや、かなりきびしかったと思います”となんの根拠も示さずに断じている。

 そして現時点(❸)。“被害者の言い分が一方的じゃないか…”等の社内・社外からのプレッシャーがあって“すごく大変”。これが子どもへの性暴力問題を長年取材して受賞もしたというジャーナリストの発言だろうか。ただの怠慢ではないか。すでにこの時点では、性加害行為についての文春記事もとっくに裁判で決着して認められているのである。

 さらに問題に思うのは、その後段(❹)。“見たくない…”などの社会・社内の“思い”があるので“今の時代になってもなかなか難しいんですよ”と言う。社会のそんな風潮にこそ警鐘を鳴らし、事実を知らしめるのがジャーナリズムの役割ではないか。まして驚くのは(うっかりキャスターの質問に乗ってしまったか)“社内”も同様だと言っていることだ。それこそが‘メディアの沈黙’の(少なくとも朝日新聞社の)もっとも根源的な問題なのではないか。(念のため指摘しておくが、これは“芸能ゴシップという感覚”“(女性ではなく)男の子への性加害はイメージが湧かなかった(同番組キャスターの発言)”といった軽視・無関心のような消極的な理由ではなく、“見たくない、聞きたくない”という積極的な拒絶反応を言っているのである。)

 

 これら発言のいちいちにも疑問を感じるが、実はもっと憮然とさせられるのは、この大久保真紀という人の姿に、なんらジャーナリストとしての覚悟も矜持も感じられないことだ。

 ここには、文春の裁判以降もなおも続いたジャニー喜多川の性犯罪を防げなかったことへの痛恨の思いも、自分たちの無能を屈辱とし、小学生や中学生だった子どもたちをむざむざ見殺しにした怠慢を真剣に恥じる姿はない。もとより、文春の記者だった中村竜太郎の使命感もなければ、カトリック教会神父達の子どたちへの性虐待を告発したボストン・グローブ紙記者マット・キャロルの信念もない。ただぺらぺらとお粗末な言い訳に終始するばかりである。


 

 この番組の最後に、キャスターの“今後、何が大切になってくるのか”という、各出席者への問いかけに対して、彼女は次のように述べる。

 

❺ マスメディア、新聞もそうですけど、テレビ局も、どうして報道できなかったことを検証する必要がある。BBCも報道しましたけど、あれはジミー・サヴィル*の経験があってこその番組なので、私たち、今、気付いたわけですから、やらなきゃいけない。

❻ そしてもう一つは、社会全体がこの問題を見たくない、聞きたくないではなくて被害者にとってはなかったことになるのが一番つらいんです。あったことなんです。あったことをみんなで対応していかなきゃいけないので、社会が嫌だ、見たくないじゃなくて、ちゃんと認めて、誹謗・中傷するんじゃなくて、認めていく、隠蔽しないということが重要だと思います。

 

 (❺)“私たち、今、気付いたわけですから”!! “私たち”というのは新聞を含むマスメディアのことを言っているんだよな、と思わず読み返してしまう。“今、気付いた”のか! BBCは偉そうなドキュメントを流してくれたけど、自分自身の脛に傷があったからやれたんで、我々が出遅れたのは仕方がないんだ…とでも言いたいのだろうか。

 (❻) ここに朝日新聞のスタンスが端的に露呈する。今後、何が大切になってくるか ― この主語は本来マスメディアであり朝日新聞であるはずだが(❺では一応その立場で述べている)、ここで主語は“社会全体”にすり替わる。社会が見たくないというものに目を瞠かせ、誹謗・中傷・隠蔽をやめさせる、その責任を負っているのがマスメディアではないのか。この物言いに、先の沈黙の原因が、社会の“見たくない…”にある、とあたかも社会全体に責任を転嫁するかのような同根のスタンスが露呈している。

* ジミー・サヴィル:BBCの42年にわたる長寿番組や人気子ども向け番組の司会を務め、慈善活動にも精力的に関わって、英王室からはナイトの爵位も授けられた。生前その性加害についての告発は散発的にあったものの問題化されることはなかった。2011年の死後、SNS等による告発が続出し、長年にわたるBBC控室や慈善施設での5歳からの男女児童4~500人以上への性犯罪の実態が明るみになった。BBCは当初これを隠蔽に走ったが、最終的には自ら独立調査委員会を設立し詳細な報告書が発表された。


 

 

 このような朝日新聞社の(そしておそらくはほとんどの新聞社の)、自らの当事者性を脇に除けて薄め、第三者の高みから物を言うスタンスは、「社説」にこそ露わになる。9/9付『ジャニーズ 出直しと言えるのか』と題された社説。全78行中後半の次の20行がメディアの責任についての言及である。

 

 未成年への未曾有の人権侵害が間近で起きていたのに、結果的に見過ごしてきたメディアの動きはいまだ鈍い。

 自社が取引先の人権侵害にどう加担したのか検証し、是正を強く求め、履行状況を確認することは、今やあらゆる企業に課せられた社会的責務だ。これまでの経緯の検証をしないままジャニーズに関わり続けることは、朝日新聞を含め、もはや許されない。

 メディアの経営者は適格性が問われているのを自覚し、今なにをすべきかよく考えるべきだ。現場レベルでも内向きの論理が横行していないか自省し、責任を果たすべきなのはいうまでもない。

 

 文中の“朝日新聞を含め”という字句を取り除いて読むと、きれいさっぱり朝日自身の責任を問う文意は霧消する。ここで言及しているのはジャニーズと“取引”関係にあったメディアに限っているので、“朝日新聞を含め”とあたかも自らも反省しているように装いながら、取引のなかった(だよね?)朝日の責任はそもそもまったく問われない。“もはや許されない”“自省し、責任を果たすべき”と糾弾されているのは取引のあったメディアのみだ。朝日新聞は安全地帯からご高説を垂れているのだ。‘メディアの沈黙’の罪はみごとにスルーされている。

 

 以上から見るに、朝日新聞社としてのスタンスは次のようなところだろうか。

 

 この事件の‘メディアの沈黙’について、もっとも罪が重いのは、もちろん取引関係があって隠蔽工作に加担した共犯者ともいうべきテレビ局や出版社である。それに比べたら、ただ無為・怠慢だっただけの新聞社の罪は軽い。まして朝日新聞は不十分ではあったかもしれないが曲りなりにも記事は出していたのだから他社よりさらにましなはずだ。

 よって、朝日新聞社として過度に自らの傷口を抉り出して見せる必要はなかろう。一応反省の態度は見せつつも、‘メディアの沈黙’という本件の〈周辺〉問題の火の粉をなるべく被らないよう、深入りするべきではない。メインの問題であるジャニー喜多川とジャニーズ事務所の罪自体についてはマスコミとして批判を受けない程度に追及していくが、やりすぎるとブーメランのように‘メディアの沈黙’問題が自らに跳ね返ってきてしまう。適度に扱いながら、この‘メディアの沈黙’問題がしだいにうやむやになって消えていくのを待つのが得策である。

 

 穿ちすぎだろうか。

 ‘メディアの沈黙’について、今後、社として真正面から検証されることはあるまい。現時点では全く無視というわけにもいかないから、より具体的に言及するなら、社員個人としてのコラムや発言の形を取る。先に見た大久保真紀の発言もそうだろうし、紙上のコラム欄では田玉恵美というやはり論説委員が、個人の立場で自問自答するどうにも歯切れの悪い文章を書いていたような記憶がある(あらためて確認したい**)。また外部の関係者(中村竜太郎元文春記者やモビーン・アザーBBC記者)のインタビューなどを掲載していたのもアリバイ作りとして有効なのだろう。

 

 

 

 最後に、9/8朝刊に載った「人権尊重今後も徹底します 本社」との見出しがつけられた「福島範彰・朝日新聞社執行役員広報担当のコメント」を以下に掲げる。

 

ジャニー喜多川氏による性加害問題をめぐり、外部専門家による再発防止特別チームが公表した調査報告書では「マスメディアの沈黙」への言及がありました。朝日新聞社はメディア企業として、指摘を重く受け止めております。本社は性加害などの人権侵害を許されないものと考え、これまでも研修などを通して社内に浸透させるように努めてまいりました。今後とも報道の責任を果たし、人権尊重の観点を企業活動全体でも徹底してまいります。

 

 みごとな紋切り型である。ことあるごとに政治家のコピペコメントを批判するのに、その矢が自分自身に向けられることはどうやらないようだ。

 

(以上 23.9/11)

 

** 23.5/27「ジャニーズ性加害問題 新聞に欠けていたものは 田玉恵美」(抜粋)

・朝日新聞が本格的に報じたのは、被害を訴える男性が顔を出して実名で記者会見をした4月になってからだ。なぜ見過ごしてきたのか。自分なりに考えてみたい。

・この「セクハラ」が性暴力で、深刻な人権侵害に当たるとの認識が欠落していたことだ。女性への性暴力を精力的に取材していた記者でも「男性が被害者になりうるという感覚を持てていなかった」という。

・この疑惑は週刊誌が得意とする「芸能ゴシップ」であり、新聞が扱う題材ではないと頭ごなしに考えてしまったのではないかと省みる人も多かった。

・少なくとも私が知る限り、朝日新聞の取材現場がジャニーズに忖度しなければならない理由はないように思う。実際、真相を探ろうと取材した同僚もいた。

 

 

 

9/12

 今朝の朝日新聞朝刊に「帝国の闇 ジャニーズ性加害問題」という記事が載った。「…これほど長期間、多数の少年への加害はなぜ放置されたのか。様々な視点から考えます。」として数回連載するようだ。担当は複数の記者と大久保真紀編集委員である。新聞自身の‘メディアの沈黙’についてどこまで踏み込むのか、ただのアリバイ作りに終わるのか。さて。

 

9/18

 「帝国の闇…」は5回連載。うち第3回が「『芸能界の話』メディア動かず」との見出しで‘メディアの沈黙’を扱った。新聞の沈黙については'99年と'04年当時の放送芸能担当の元記者が当時を振り返った発言を載せたのみ。担当記者個人レベルの認識の問題、ということか。(大久保真紀の語り口や田玉恵美の文と妙に口裏を合わせているかのようだ。)新聞社自身の責任への検証は、案の定これで済ませたつもりらしい。やっぱりね。これでも朝日はまだまし?なのかな。闇瓜とか惨刑はどうだか、検証する気も起らない。