明菜3題
・「駅」のふたつの‘解釈’
・極めつけの「SOLITUDE」
・明菜の宿業
「駅」のふたつの‘解釈’
山下達郎がアルバム「CRIMSON」に収録された「駅」を次のように批判したことは夙に喧伝されている。
そのアイドル・シンガーがこの曲に対して示した解釈のひどさに、かなり憤慨していたこともあって、ぜひとも自分の手でアレンジしてみたいという誘惑にかられ、彼女(竹内まりや)を説得してレコーディングまでこぎつけた。
〈竹内まりや「インプレッションズ」 曲目解説〉
達郎はその後、自らのDJ番組で、難じたのはアレンジスタッフについてであって明菜に対してではない、と語ったそうだ。
達郎の真意はともかく、また評価はさておき、明菜とまりやのこの曲の‘解釈’は確かに異なっているように感じる。
「駅」は、隣の車両に乗っている2年前に別れた男の横顔を見ているうちに、その時の彼の気持ちが今になってわかる、と歌われる。わかるというのは、次のことだ。
私だけ 愛してたことも
このフレーズは二通りに読めてしまう。
明菜は、これを「私だけが(一方的にあなたを)愛していたことが」今になって痛いほどわかる、と‘解釈’している。
一方、作詞者であるまりやは「(あなたが)私だけを愛してくれていたことが」今になって痛いほどわかる、と歌っているように聞こえる。
当然、作詞者の意図した‘正解’があるわけだが、果たしてまりやの‘解釈’が正解なのか。
歌詞の流れは「こみあげる苦い思い出に」「それぞれが待つ人のもとへ戻っていくのね」そして「消えていく後姿がやけに哀しく心に残る」とつづく。
どちらの‘解釈’が自然か、おのずから明らかだろう。
まりやの歌声はあまりに堂々と朗らかすぎて、明菜の方が曲調からもすんなりと心に落ちる。
だが、まりやはそのことを十分に承知していたのではなかろうか。
彼女は、この曲は明菜のためにマイナー・メロのアプローチで書いたもので、「当初、この曲を自分で歌う事に難色を示していた(山下達郎:同前)」。
おそらく聡明な竹内まりやは、自分の声質ではこの曲の本来の趣から外れ、異なったニュアンスで歌わざるをえないことが分っていたのだ。
極めつけの「SOLITUDE」
2007年にデビュー25周年アルバムとしてリリースされた「バラード・ベスト」は、殆どが旧作からの曲を集めたもので、ここでしか聴くことができないのは3曲だけだ(「難破船」「SOLITUDE」「帰省」の新録音)。
だが、その中でも「SOLITUDE」は極めつけの名唱だ。この1曲のためにだけでも、このアルバムを手に入れる価値がある。
華々しいアイドル時代を過ぎて、明菜はあきらかに歌い方も、その歌声さえも変えてしまった。天使が墜落していく恍惚を思わせるあの‘明菜ビブラート’も、限りない陰影を醸し出すアルトの響きも、自ら封印してしまったように見える。ときにそれは声が出ていないという印象にさえなって、つい全盛期を懐かしむ不満にもつながった。
だが、この「SOLITUDE」を聴いて、完全に考えが変わった。
「SOLITUDE」は、もともと「SAND BEIGE」と「DESIRE」のあいだの13番目のシングルとして '85年に発表された。地味な曲だが、スタッフの反対を押し切って明菜がシングルのA面にしたという。案の定、オリコンで週間1位はとったものの、ザ・ベストテンでは2位どまりで、破竹の勢いだったこの時期の明菜にしては今一つの評判だった。
しかし、明菜はこの曲をかなり気に入っていたようで、DVDでも「felicidad('97)」や「I hope so('03)」ツァーライブで聴くことができる。
そこでの歌唱もさることながら、このアルバムでのこの歌は絶品というほかない。
諦観したかのように歌い始めたかと思うと、すこし拗ねたように“だから、好きとか嫌いの問題じゃなくて”とつながり、“捜さないでね…”と突っぱねる。ところがつづいての“だからなおさらままごと遊び 男ならやめなさい そんな感じね”という強がる言葉のうらはらには今にも崩れてしまいそうな悲しみが漂う。そして、“誰もみなストレンジャー … どこかでBecause still I need you”の、初冬の早朝を思わせるしんとした孤独な覚悟が沁みるように歌われ、再び繰り返される“捜さないでね…”からは紙一重で深い絶望に耐えながら生きていくことの哀しさがにじみ出る。要所々々で、虚空に放たれるように歌われる “ ソリテュード ” のフレーズも絶妙だ。
明菜にははじめからこの歌につよい思い入れがあったはずだが、さすがにここまでの深いデリケートな表現は20歳の頃の彼女にもできなかった。
この歌声を聴いていると、明菜が、かつてのみずみずしい歌声を封印してでも、何を求めてきたのか、痛いほど理解できるような気がする。
明菜の宿業
歌っている明菜は、時として実に苦しそうな表情を見せる。眉間にしわを寄せて声を絞り出すかのようだ。
上村松園に六条御息所を題材にした作品があって(「焔」)、端正な女性を描き続けた松園にはめずらしく、自らの想念に身悶えする凄艶な姿を現している。
苦し気な明菜を見ていると、ついこの絵を想い起してしまう。
「難破船」を歌いながら明菜が涙を流すシーンはYou Tubeでも見られる。
役になりきる、とか、歌の世界に入り込む、とか、芸能の世界では当たり前に語られることだけれど、明菜の場合、‘入魂’とか‘迫真’とかの言葉では言い尽くせないものがあるような気がしてならない。
例えば、「天城越え」で石川さゆりが “ 誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか ” と歌っても、彼女がまさか本当に人を殺すとは思わないし、ちあきなおみが「ねえあんた」で固唾をのむばかりのパフォーマンスを演じても、名優の名演技と思いながらも現実の彼女があの娼婦と重なるわけではない。ちあきなおみが歌うとき、彼女は透明な触媒となって、その存在は歌のなかに溶け込んでいく。
だが、明菜が「難破船」で “ あなたを海に沈めたい ” と歌うとき、つい、この娘は本気でそのつもりなのではないかと思ってしまうのだ。(このフレーズの語尾で、ほとばしる感情を必死で抑えようとするかのように、歌声がわずかに震える。)
それは、明菜の力量というよりも、むしろ‘業’というべきものではないか。
サカナクションの山口一郎は、自らのFM番組(Night Fishing Radio '18.12/16)で中森明菜を特集し、“歌ってきた歌をすべて背負い込んできている人ではないか”と評した。(正確ではないが、概ねそのようなニュアンスだったはずだ。)
だが、むしろ歌の方が明菜の資質や感情に引き寄せられてくるというべきだろう。まさに「難破船」は、明菜の失恋の噂を聞いた加藤登紀子が、それまで自分が歌っていた曲を是非にと明菜に売り込んだものだ。
彼女の失恋が噂されていた時期で、たまたま、同じスタジオで隣に佇んでいたんですね。それで『よかったら歌ってみませんか』とカセットを送ったんです。そしたら、次のコンサートに、ぽんとお花が届いて、それがイエスの返事でした。 〈'05:加藤登紀子ツアーパンフレット〉
かの事件の前後に歌われた「LIAR」も「水に挿した花」も、傷口にさらに塩を塗り込むような内容で、なにもこんな時に敢えてこんな歌を歌わなくても、と思ってしまうほどだ。(だがその一方で、無理やり空元気を出したような「Dear Friend」はひどく精彩を欠く。)
あれ以来、今日にいたるまで、明菜は、生々しい痛みを自らリアルに感じられるような歌ばかり呼び寄せているかのようだ。あたかもセイレーンのように。そして、気を失いながら墜ちていく快楽を思わせる比類のない‘明菜ビブラート’も、‘豊潤な陰影’ともいうべきアルトの美声も封印してしまう。
今はどうなのかは分らないが、明菜の歌う曲は、例えば松田聖子が松任谷由実と松本隆と決めて発注していたような形ではなく、プロポーザル方式で複数から提案させた曲の中から選ぶというやり方だったそうだ。(だから、竹内まりやと小林明子に作曲を依頼した「CRIMSON」を除いて、アルバムもシングルも作詞・作曲者は多彩にばらけている。)必然、曲は明菜に選ばれそうなものにどんどん収斂していく。(例えば、YMOの「過激な淑女」も、元々はこのプロポーザルで採用されなかったものだ。)
意志的にそうしてきた、というより、明菜はそうせざるをえなかったのか。明菜はなによりも歌に感情を乗せることを至上命題としてきた。
わたし、歌はヘタだと思う。すごく上手な方はいっぱいいるから。でも、歌のイメージを伝えられるっていう自信だけはあるの。雰囲気を伝えられる自信だけは。すごく生意気な言い方になっちゃうけれど、ひとって上手い歌を聴きたいとは思わないんじゃないかな。うまいなあ、さすが歌手、と思わせるような歌は…。少なくもわたしはそういう歌が聴きたいとは思わない。完璧に音符を追った、ビブラートも綺麗な…歌なんて。わたしはやっぱりイメージの湧く、なにかを感じさせる歌を歌いたい。 〈「中森明菜[心の履歴書]」'94.ポポロ編集部〉
生き方そのものが不器用というほかなく、だからこそ明菜は、ヒリヒリする痛みを実感できるような歌をつい引き寄せてしまうのだ。
シンガーソングライターであれば、自らの感情を吐露・噴出することでカタルシスにもなるだろう。だが、痛みを増殖・増幅するような歌がわらわらと寄り集まってくるのだとしたら…。(10年以上たっていたとはいえ、“都会では自殺する若者が増えている…”という歌い出しの「傘がない」をよくも歌ったものだ。-「歌姫3」-)そんな歌ばかりを歌い続けて、精神のバランスが保てるものか。
痛々しい…、と思いながらも、つい目を離すことができない。
苦界に身を置くことを、明菜は敢えて自ら選択しているわけではあるまい。明菜のそれが宿業なのだろうか。
「難破船」は、ツアーでも、セルフカバーのアルバムでも歌われている。だが、荒れ狂う弦の波間にもまれながら、放心したまま漂流するかのような歌声を聴かせるオリジナルを超えるバージョンはない。
('16.10/30 記)
〈後記〉
「難破船」の平うた部分(出だしからサビの前まで)のメロディは起伏が少なく平板で、そのまま芸もなく歌えばひどく単調になってしまう。しかも、長い(16小節くらい?)。
そこで作詞作曲者の加藤登紀子にしろ、これをカバーしている島津亜矢、中孝介や華原朋美にしろ、アクセントを強調し、タメをつくり、クレッシェンドでドラマチックに盛り上げるなどの工夫をこらしている。それはそれなりの効果を上げているようだし上手いなとも思わせる。
では、明菜はどう歌っているか。
彼女はそんなテクニックにほとんど頼っていない。デリケートな息遣いと声調。ステージ上でも振り付けはないに等しく、あたかもその歌声は、この主人公の放心した足取りそのものであるかのようだ。にもかかわらず、単調にも平板にもならない。歌は胸に深く沁み入ってくる。
なぜそう聴こえるのか。原曲の音符を少しずらしたりしているところもあるようだが(例えばサビ直前の“わたしは愛の難破船”の部分)、かえってそれはメロディ上のスパイス的なひねりを避けてよりシンプルにしたように聴こえる。わかりやすく説明できるものではない、何かがあるのだろうか。
そんなことを常々考えていたら、「少女A」についてのある記述に目が留まった。
「少女A」は中森明菜を一躍スターダムに押し上げた2曲目のシングルで、これを自分のことを詞にしたと思い込んだ明菜が、“顔を真っ赤にして涙を流し鼻水を垂らして『絶対に歌わない!』”と抵抗した、というのは有名な話だ。結局、3テイクだけ、となだめて、開き直った最後に期待していた以上のテイクを録ることができた。
この「少女A」という曲の誕生には奇妙ないきさつがある(以下、島田雄三・濱口英樹著「オマージュ〈賛歌〉to 中森明菜」による)。
まず、作詞の売野雅勇が明菜用に詞を書き、これに今とは全く違うメロディが付いていたがボツになっていた。
それとは別に、作曲の芹澤廣明がいくつかのストック曲を持っていて、そのうちの一つを採用しようということになったが、これにも別の詞が付いていた。
そこで、芹澤の曲に売野の詞を当てはめてみたら、奇跡的にほぼそのまま移し替えることができたのだという。
芹澤の曲に付いていた詞は、素人の漫画家が書いたものだったので、“やたらとAメロが長かった。漫画家の方は作詞に関しては素人だから、小節数を意識しないで書いているんですね。僕も駆け出しで、半分素人のようなものですから、詞先の書き方を十分に分かっていなくて、やはりAメロが長かった。だから、ほぼ原型のまま、少し言葉を足すくらいで芹澤さんのメロディに移し替えることができたんです。(売野談)”
この長いAメロについて、当時のディレクター島田雄三が次のように述べる。
売野さんがおっしゃるように、あの歌はAメロが長くて、延々とブツブツ呟くようなメロディラインなんですが、明菜の声は太くて強いから、オケに負けずに前に出てくる。聴きようによってはお経のようなAメロをあれだけの迫力で歌って、それがサビの「じれったい」で爆発した。デビュー間もない新人がそこまで歌えたのは、やはり奇跡的なことなんですよ。
この後「1/2の神話」「禁区」「十戒」の詞も手掛けることになった売野は、明菜について次のように語っている。
たとえ普通の言葉でも彼女が発すると詩情がスッと立ち上がる。歌い手の力のすごさを感じさせてくれる方だと思います。
芹澤は次のように語る。
この難しい歌をよく歌ったなという驚きがありましたね。音楽の3要素は「メロディ」「リズム」「ハーモニー」ですが、16歳にしてすぺて分かって歌っている。特にリズム感が素晴らしいと感じました。
また、中森明菜という歌手について問われて ―
生で歌っているところを聴いても音が正確でリズム感もいい。それからなんといっても表現力がすごい。言ってみれば天才で、生まれながらの歌手だと思います。(中略) 声質に関して言うと、美声というよりはダミ声に近い。フィーリングとしてはブルージーというか、ちょっと暗い印象だよね。どうして陰があるかは分からないけど、声そのものがブルースなんです。きっと彼女自身がブルースなんだろうな。歌声にはその人の生き方が出ますから。
‘詩情’、‘ブルース’…。
明菜が歌う「難破船」の魅力 - 迫力はどうにも具体的に言葉にすることができない。小手先の技に寄り掛ることなく、その声の内包するなにかが、聴く者の心に響くとしか言いようがないようだ。
('24.7/23 記)